他人にとっての当たり前

私はたった一人に対して、文章を書いてきた。
内容をその一人に渡したいのではなく、読む対象を一人に想定してきたのだ。
しかし、それが思わぬ方向へ走り出して、泡を食っている。

文を書いて、そこに乗っている感情については、その時々で、鉾先は違うが、最近勝手に勘違いされているようなので、「勘違いです。」と、断っておきたい。

お会いしたこともない方に、
「謝れ」と言うわけもない。
私の想像外の方で、思い当たることがあると、引っかかっていたようだ。

それについて、私は感知することはできない。
なぜなら、私の事情を全て知っていて、文章に激怒する方はいないからだ。
事情を知っているために、黙っている。
こちらも、誰を相手にしているのか、サッパリ見当もつかない。一人も口を開かないからだ。

終始一貫して、ブログを始めた当初から一人に対して書いている。
私は万人に好かれなくてもいい。
そんなものになりたくはない。
万人に好かれる人間は、存在しない。
強烈に好かれ、強烈に嫌われる。
そんな個性的な人間に魅力を感じている。
好き嫌いは、あってもいい。
そりや馬が合わない相手と、お仕事をしたら、双方がすり減って、石けんのごとく努力が水の泡と化す。

私は散々空気を読んで、先回りして相手のご機嫌を損ねないように生きてきたが、やめたいのだ。
空気を読むって、相手の言いなりになって従うことなのだ。
営業なら、それは欠かす事が出来ない。
しかし、私はもう自分を殺したくない。
折り合いをつけたり、擦り合わせや、折衝は必要だ。
そういったことが気持ち良くできるところで、イキイキと仕事をしたい。そこにはお互い無理がない。

そのために、今は自分の身体を大事にする。
間違ってなんかいない。

見切り発車をしたら、仕事に差し障りが出るという配慮からだ。

人間は全員、未完な存在なのだそうだ。

だからなのか私のもとには、次から次へとミカンが届いている。
「おまえ、なってねぇよ」と。
不知火やら、橙やら、デコポンにポンカン。
こちらは「この怖いもの知らず!デコピンしてやる。アンポンタン」と言われているようで、ポカンとするばかりである。

そして、全員が「死ぬまで完成しない未完」なのだと聞かされたとき、頭の中で除夜の鐘がゴーンと鳴り響いたて、ウソでしょう?とショックを受けた。
先生とか、大物と呼ばれるものは、全員が
「人間として、完成されているもの」に違いないと、大変な誤解をしていたものだから、相手が仏や聖母マリアの対応をしないことに対して、「おかしい」と思っていた。

私の上に立つ人間は、全ての面において、私より出来ている神さまだと、勝手に思い込んでいたものだから、
これはいただけないと、腹わたがグツグツと煮えたぎっていたのだ。

よく考えてみれば、全ての面において出来ていたら、もはや人間ではないのだ。たしかに神さま、仏様は人間ではない。

相手も簡単に腹を立てたりする一面を持つ、人間なのだ。
この視点が、欠けていた。

ごめんなさい。

出来の良い人間は、常に内観をし、物事を冷静に俯瞰しているもので、いついかなる時でも、実践できているものと、大大大誤解をしていた。

あちこちから「オイ、そんな訳がないだろう。今頃気づいたのか」と、声が聞こえるが、今頃になって気づいたのだ。

なんとなくのご想像通り、私にとっての世界は、全て出来ている人間たちで、いっぱいになっていたのだ。
だから、彼等の言うことは全て正しく、できていない自分が間違っているから、叩かれるのだと思って生きてきた。

それが、全てがすべて正しくもなかったのだと知った時は、新鮮に感じ、目玉が飛び出しそうだった。
「えーっ、私は間違っていなくていいの?」と。

自分の人生というのは、常に他人に牛耳られるものだというルールのある、男尊女卑で時代錯誤なガラパゴス島の人間として存在してきた。

そこで、声高らかに言う
「めざせ!脱ガラパゴス」

自分の人生は自分で選ぶのが、当たり前だということが、どんなに私に衝撃を与えたことか。
「青天の霹靂」という言葉が、ピッタリだ。

あいにく今日は気温が低く、雪まじりのみぞれが降っていて、どこへも出かけられない。私の心をうつしとるように
「曇天模様の薄ぼんやり」だ。外気温2℃で暖房は効かず、凍えている。

よかったら、、、

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むんや

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「なんとでもなるさ」を合言葉に。 挑戦は続く。詳しいプロフィールはこちらから
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